ゴスは過去の遺産、ゴシックの変奏曲である。しかも、その過去は、一度も存在したことのない架空の過去である。
復刊夜想『ゴス』で、私はそのことを一番言いたかったのかもしれない。そして夜想復刊のレゾンデートルの一つがそこにある。
ゴッシクハートの高原英理は、まさに復刊夜想の共犯者である。もちろん、こちらから共犯者として指名するのは失礼かもしれない。幻視の優先は私にあると高橋英理は言うだろう。
優先はどうでもよい。単に嬉しかっただけのことだ。視線を共有できるのは快楽事である。
ゴシックハートのもう一つの観点は、中井英夫の流謫者という姿勢だ。中井英夫は自虐を含めて人外と言ったが、本来は人外は、誇るべき流謫者であり、自らが選択して流謫の身となるある種の精神貴族であるべきだ。
中井英夫は、停止するというダンディズムを全うした流謫者であり、地上の月蝕領を失った以上、それは有り得べき唯一の態度であったかもしれない。
月蝕領の崩壊した地上に残された我々は、あとをどうやって過ごしたらよいのか。伽藍となった月蝕領の残滓を嘆くのは容易だが、しれっと過去の遺跡から盗掘してきた隕石を並べてみるのも乙なものかもしれない。
3人の屍体から1人を組み立てるのも、この世紀末の余白の時期なら許されるだろう。許されるべく意匠を凝らすのがこの世紀の趣向だろう。ゴシックハートはこの地上に残された月蝕領の最後の者たちに地図を見せてくれている。可能性という地図を。
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