人間のフラッシュ・メモリーは7つしかないと聞いたことがある。昔から記憶することは苦手だったが、それにしても最近、日常に使う記憶のメモリーがなさすぎる。私にはもう3つぐらいしか機能していないのかと思う時がある。特にアイディアとか、情報はすぐ忘れるので、とっととメモすることにしている。40歳すぎてすぐに痴呆症になりかかる人もいるから、検査したほうがいいよと言われた。そうかもしれない。老人性痴呆症のドキュメントをテレビで見たことがあるが、すぐに名前を忘れるので、タックペーパーに名前を書いて忘れたものに貼っていた。どんどん貼るものが増えて、部屋中タックペーパーだらけだった。
その風景は不思議なものだったが、世界のものを記述し続けて把握するということに心を動かされた。記憶力の弱い私は、記憶する代わりにメモをとって、そのメモの集積によって世界と関係しようとしているのだから、似たようなことをしている。感覚や直感で把握していた世界をメモによって捉えるというのは、面倒ではあるがかなり世界観が変わって面白い。若い頃は、直感で捉える世界像が唯一絶対であると思っていた。今の私にとって世界は直感や見たまま把握できる対象ではなくなった。書き留めることによって、あるいは意識的な行為をすることによってしか世界は私の前に姿を現さない。もしかしたら世界が変わってそうしないと捕まえられなくなったのかもしれない。
畠山直哉の最新作「スロウ・グラス」は、水滴のついたガラス越しに風景を撮った写真だ。風景を撮ったというのが正しいかどうか分からない。グラスの水滴にピントが合っているからだ。硬質な、鉱物結晶のような水滴が映像の全面を覆っていて、まず金属のような水滴がとグラスが目に入る。とても水滴とは思えない大きさの結晶体の彼方にぼーっとした光に浮かび上がる風景がある。世界をどう捉えるか、写真という窓を通して世界をどう把握するか、畠山直哉の興味は常にそこにある。この作品はそれがはっきりと示されている。裸眼の3Dのやり方で手前の水滴に自分の目の焦点をあわせると、彼方の風景が脳裏にくっきりと浮かんできた。「スロウ・グラス」の風景は、網膜を使わないで景色や世界を把握する感じだ。世界はいろいろな方法で捉えることができる。もしかしたら世界は見えたように存在するかどうか分からない。今、世界はすぐには分からない不確定な姿をしているかもしれない。そんな世界を畠山は写真にする。
写真は世界をそのままに記述する装置ではない。時間や空間を瞬間に止める装置であるかのように思われているが、時間も空間も写真家の意志によって決定されている。写真は、写真家の見るようにしか写らないのである。畠山直哉の写真を見るたびにそのことを再認識するが、「スロウ・グラス」では特にそのことを実感する。「スロウ・グラス」という作品名は、ボブ・ショウの"Other
Days, Other Eyes "(邦題『去りにし日々、今ひとたびの幻』サンリオ文庫)の中にでてくる、光が通過する時間がずれるガラスからとられている。そのガラスを通ると光は時間が遅れて到着する。十光年分遅れてて出てくれば、十年前の過去が映し出される。カメラのレンズが十年遅れの「スロウ・グラス」なら今、シャッターを切ると十年前の風景が写ることになる。
畠山直哉の「スロウ・グラス」は、風景に残されている記憶、自分が懐かしいと思うような記憶、それを写真に記述するような試みだろう。風景は時間を堆積しているのだ。光の速度が変わりさえすれば、過去の風景が映像として浮かんでくる。光というところがポイントだ。人が世界を見るためには光が必要だ。光の速度がずれると時間がずれる。写真は光の科学である。畠山直哉はそう考えて写真というメディアに対峙しているのだろう。光をずらす窓である「スロウ・グラス」が写真には幾層も存在する。写真家の紅彩、カメラのレンズ、フィルム、印画紙。窓を通して世界は変質していく。もちろん変質していくというのは、窓の向こうにある世界が固定された確実なものである場合だ。もしかしたら世界は窓による変容によってしか捉えられないのかもしれない。世界は記述しないと存在しない。そして記述したようにしか存在しないのだとしたら、直感で把握する世界もまた一つの記述にしか過ぎないのかもしれない。畠山の「スロウ・グラス」はそんなことを考えさせてくれる。
畠山直哉の魅力は、彼にとって科学であり、哲学である写真が、やはり撮って楽しい写真の原点をもっているということだ。写真は、撮る行為を楽しんでいるとそれが伝わってくるものだ。鉱山の写真「ライム・ヒルズ」や「ブラスト」には、鉱山技師との交流が写り込んでいるし、初期の「等高線」には故郷での生活とそこに生成したモダンな建物、工場というものを見ている若き日の畠山直哉の感性が生き続けている。深読みをすると、そこにはさらに父親との交流があるような気がする。畠山直哉の写真の原点は人や出会いなのだ。「スロウ・グラス」の撮影も誰かと旅をしながら楽しげにこの写真を撮影したのではないかと思わせる何かが写っている。畠山直哉は世界を写真で記述していく。畠山直哉という観察者がいると世界は姿を変える。素粒子の観察をするときと同じように、観察者がいると風景が変化するのだ。そうして世界を記述していくのが畠山の写真だ。現実であって現実でない畠山の写真世界。窓に入っている光の速度が異なるだけで見える世界が変わってしまうという「スロウ・グラス」のイメージは、まさに畠山が写真に抱いていたものではないだろうか。シャッター速度で、光の量を変えれば世界が変わる。それが写真なのだ。
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◆Data畠山直哉「Slow Glass 展」/ 2002年9月7日〜10月5日/ Taka Ishii Gallery http://www2u.biglobe.ne.jp/~tig/artist/nh/nh.html
◆Information 企画展「畠山直哉写真展」http://www.nmao.go.jp/tj/1405.html 2002年11月7日(木)〜12月17日(火)国立国際美術館
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ペヨトル工房 http://home.att.ne.jp/surf/hilon/peyotl.html
2-:+ http://www.2minus.com
Peyotlfan http://www.thought.ne.jp/peyotl
ペヨトルイン西部講堂2002
http://www.yo.rim.or.jp/~hgcymnk/peyotl/index.html
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.rim.or.jp/~hgcymnk/peyotl/index.html