解散日記50

 3月31日

          

  夜半に降りだした雪は、朝になっても止まず、いてもたってもいらなくなった僕は、薄っすらと明るくなるのを待って谷中墓地に向かった。満開の桜に豪雪が降って、太い枝まで枝垂れていた。雪に音が吸われて静寂が拡がっている墓地の彼方でばきばきという枝の折れる音がする。枝にちょっと触れると雪が落ちてばさっと枝が跳ね上がった。1988年の4月8日、満開で大雪という不思議な日を僕がくっきり覚えているのは、その日、竹中英太郎が身罷ったからだ。竹中英太郎、昭和の挿絵師。夢野久作の名作の多くを英太郎の挿絵が飾っている。

 2001年3月31日、88年の雪ほどではないけれども、満開の桜に雪が降って、ボクは歌舞伎の雪姫の場面を思い出していた。雪姫という言葉から一面に降る桜が雪に見えてしまう錯覚を幾度体験したことか。こんな雪に日にはと……ボクは竹中英太郎の話しをしていた。昭和の絵師が昭和をもって身罷った。それがボクの弔電だった。世紀の最初の春、桜。昭和歌舞伎の華、中村歌右衛門がその雪と桜に送られてこの世を去った。

 NHK3チャンネルあたりで一日ぶち抜いて追悼番組を組むのかと思っていたら、そんなことはなく、驚くほど静かな反応だった。ボクには、大成駒は、伝統の継承する人というよりも心理演技を歌舞伎に持ち込んだ改革者のように思えたが、美学によって歌舞伎そのものに君臨していた。

 ペヨトル工房が歌舞伎はともだちで「三階さん」を組んだとき、突然、日の当たらないものたちをきちんととりあげていただいて、御礼を申し上げますと、中村歌右衛門さんから電話がかかってきて驚いた。その言い様は、歌舞伎に代わりまして私がお礼を申し上げますという感じで、私が昭和の歌舞伎よという凛として爽やかな誇りが感じられた。歌舞伎界からの最も早い、そして愛のある反応だった。

 その中村歌右衛門さんが亡くなられて、余りに反応がなさすぎるように思う。中村歌右衛門さんは96年8月以来舞台に立っていない。この6年の不在が人々の記憶から大成駒を遠い存在にしてしまったのだろうか。雪の寒さに、桜が花ごと道に散乱していたが、それは無残というよりも哀しみを誘う風情であった。



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